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大津絵の店 五代目のブログ
主に大津絵、店、制作に関する話題を扱っています。
「大津絵や奴の髭に秋の風」 馬徨
逢坂の山間、大谷、追分の町、日の陰るのも早い。
車石の上を行く米俵を積んだ牛車の軋む音、早駕籠の掛声、急坂に喘ぐ荷馬の鼻息、馬子の怒声、物売りの声、その前を気忙しく往き交う旅人達。
名物の餅を片手に大津絵の店先でどこかの講の連中の珍しげな笑い声、それに呼びかけるように宿の客引き女の甲高い大津弁。立ちのぼる夕餉の支度の白い煙、その中から聞こえてくる子供の泣き声。
このような庶民の生活の喧噪の中で毎日描き続けられていたのが大津絵であります。
もともと、この民画と言われる大津絵は仏画より始まりました。元禄のころ芭蕉の有名な句に、「大津絵の筆のはじめは何仏」とありますが、大津絵師の描き初めは何の仏様であろうかとの意であります。
仏教や土俗信仰が盛んになってきたのは徳川初期であり、そして、寛永年間(西暦1624〜43)に大津絵が生まれました。当時、島原の乱を契機として徳川幕府からキリスト教禁止の布告がなされ、その弾圧は苛烈でありました。殉教者二十八万といわれる数がそれを物語っています。
宗門改め厳密に励行された、この時代に、庶民の一種の免罪符のような役割を大津絵の仏画が持っていたともいわれています。
そして、簡素に要約された三尊来迎、十三仏、不動尊、青面金剛などが毎日描かれていた所の地名をとって、追分絵、または大谷絵とも呼ばれていた時期もありました。
後年いつの頃からか大津絵と総称されるようになったのであります。
そして、時代の推移と共に様々な図柄が生まれ、その種類は百種類以上にのぼります。仏画、風刺画、武者絵、美人画、鳥獣画などに分けられますが、本来もっと多くの画題があったのであろうと思われます。
その中で売れない画題が自然淘汰され、今日数えられるのはそれくらいです。
これらの絵は東海道の中でも特に繁盛をきわめていた大津の宿で旅人を相手に売られていました。
天保年間、江戸の人口は百万を数え、東の浮世絵はそれら市民を対象に商われていましたが、同時代、大津の人口は一万五千人弱で、必然的に往来する旅人相手に商いがなされていました。
伊勢参宮名所図会は、今日でいうロードマップのようなもので、その追分の図のところに、「これより大津領にて町つづきなり。針、そろばん、大津絵などの店多し」とあり、他の名所の店共々、大津絵を売る店が並んでいた様が解るのであります。
客の需要に応じるには時間の余裕もなく、また、数多く迅速に描かねばならぬ必然性から、合羽摺り、版木押し、そして、コンパス定規などが用いられ、大津絵独自の技法が生まれました。
色も七色ぐらいでどの図柄も描かれ、毎日描く絵師達の手馴れた技と相俟って簡素でのびのびとした描線などが特徴となっています。
特に色は、墨、丹(朱)、胡粉(白)、黄土などが主になっています。
「大津絵に丹の過ぎたる暑さかな」 蓼太
という句もあるくらいです。
伊勢参宮名所図会より、追分近辺
この人気のあった大津絵をより一層有名にしたのは、近松門左衛門の作で、「傾城反魂香」という芝居であります。
この物語の主人公は、吃の又平という絵師であり、現代も時に上演されているヒット作品です。
そのため、世間に大津絵の吃の又平元祖説が生まれ、このフィクションを今日も真実と思っている人々が数多くいるわけです。
ところで、江戸初期より大衆に親しまれ続いてきた大津絵も、世が明治に変わり、欧米文化追随の風潮は、民心を大津絵という民俗美術から離反させていったのです。
その上、鉄道の開通などにより、徒歩の旅人が激減し、衰退の一途をたどり、やがてこの大津の地から完全に消え去るであろう大津絵を、それを愛し、民衆の生んだ民画の精神、そして、素朴な美に惚れ込んでいた初代松山など何人かの絵師達が必死にこの絵を大津に残すことに努力したのであります。
これからもこの大津絵の心と筆のあとを伝えるため、努力してまいりますが、皆様のご愛好を心よりお願い申し上げます。
四代目 高橋松山